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キヨフのエプロン 刺繍とボビンレース


はじめてゆっくりとチェコ・モラヴィアの民族衣装を眺めたのはいつのことだったか。



プラハに住んでいるうちは、国立博物館に行く以外には、骨とう品店、それもテキスタイルを専門にしているところでしか目にすることができるところはなかったと思う。


しかも、地方や着る人が未婚か、既婚かによっても(この辺りは日本の着物にも共通する)変わるため、民族衣装を知るのは広くて深い沼に入るような、寄る辺ないところがありました。


ところが、藍染めに関わりはじめてから、にわかに民族衣装の話題が身近になり、ついには、美しい刺繍のスカーフや衣装(キヨフのエプロン)が手に入るようになりました。


最初の一枚は本当にひょんなことから始まりました。モラヴィアでは民族衣装を結婚式だけでなく、様々なお祭り、宗教的な儀式の際に身につけることがとても多くなりました。共産主義時代が終わって、ある程度の時間が経つことで、再び人々が自分たちの伝統に興味を持つようになったのです。そしてこの頃では、盛んに衣装の交換やバザーの開催などが行われています。2024年のモラヴィア訪問でも、南モラヴィアのキヨフの博物館で開催された、地元の民族衣装のバザーに連れて行ってもらい、民族衣装のブラウスの刺繍のカラーを手に入れました。


そしてこのエプロンもモラヴィアとスロヴァキアの方々の参加するオンラインの「譲ります/譲ってください」で偶然知り合った方から譲ってもらいました。譲ってくださった方からお聞きしたのは、このエプロンは南モラヴィアのキヨフに住んでいたヤルミラ・チェホヴァーさんが、18歳の時に作ったもの。


キヨフのエプロン(部分)1944年の縫い取りの上部にハートのモティーフ
キヨフのエプロン(部分)1944年の縫い取りの上部にハートのモティーフ


紺地に白い藍染めの生地に刺繍のエプロン
紺地に白い藍染めの生地に刺繍のエプロン

エプロンは1944年に制作されたもの(写真の縫い取りを参照)なので、ちょうど戦中の物資不足の中で作られたものになります。エプロン自体は、光沢のある藍染めの生地に防染して模様を付けていますが、この模様はおそらく縫い絞りをして作る模様をまねて後に型で染めたものだと思います。裾には繊細なボビンレースがついています。キヨフにもボビンレースの産地が小さいながらもありましたので、レースは購入したのか、もしかしたら自分で作ったものかもしれませんが、いずれにしても今でも当時でも、とても高価なもの。


また、1920~30年代と比較して合成の染料が発達し、またそれに従って人々の好みが変わり、かつてはエプロンの中で赤い刺繍糸が一番目立っていましたが、グリーンやピンク、黄色など、はなやかな色彩が花やハートのモティーフとなって自己主張しています。


ちなみにこの藍染めの刺繍エプロンのハートのマークについては、動物のお肉で命をつなぐ人たちが、動物の心臓のことをよく知っていて、重要な文様として使ったのではという考察を考古学の先生から頂きました。エプロンではハートから豊穣を意味するザクロ(りんご)やお花が伸びています。写真右手上部


たとえばチェコでは、冬の間にごちそうを食べるお祝いの日(復活祭の46日前の灰の水曜日の前の数日に行われる)のほかに、冬の間の食料の確保に欠かせない豚の屠殺のこと指すザビヤチュカが行われます。


ザビヤチュカのときは、豚一頭を本当にいろいろな料理にします。私がプラハにいたころは、会社のパーティーとかでもザビヤチュカをして、みんなでごちそうを食べるようなこともしていました。昔は冬の間に必要不可欠なものであったものの、現在では人と人をつなぐ役割も担っているということでしょうか。私もチェコ北西部の農園に招いていただいて、子豚の丸焼きとか、トラチェンカ(豚のくず肉のにこごり、大好き)、ヤーテルニツェ(ソーセージ)、シュクバルキ(脂身のから揚げ(笑))とかいろんなものを食べさせてもらったなぁと思いだします。特にザビヤチュカのスープもあると知って調べたら、とんこつみたいに豚の骨からスープを取って、豚の血も入れる赤いスープのようです。ヤーテルニツェにも血のはいったものがあって、おっかなびっくり食べた思い出があります。


チェコ・モラヴィアの衣食住について、いつまでも新しい発見があります。時代も変わってゆきます。楽しみながらたくさんのことを日本に伝えてゆければと思っています。






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